軽度外傷性脳損傷友の会第2回総会(2010年4月8日)へのメッセージ

14世紀には全ヨーロッパにまたがるペストの大流行が発生し、当時のヨーロッパ人口の3分の1から2にあたる約2,000~3,000万人が死亡したと推定されています。これは光学顕微鏡が発明される前のことであり、人類はペスト菌を目視することはできず、ペストの大流行は、「悪魔の仕業」、あるいは、「ユダヤ教徒の仕業」とされユダヤ教徒への迫害や虐殺が行われました。

1674年にオランダのレーウェンフックが光学顕微鏡観察によって初めて細菌を見出し、1894年にはスイス・フランスの医師で、パスツール研究所の細菌学者でもあったアレクサンダー・イェルサンが香港でペスト菌を発見しました。

イェルサンのペスト菌発見までの間、人類は、ペスト菌を目視できませんでしたが、目視しえないからペスト菌が存在しなかったものではありません。14世紀のペストの大流行時もペスト菌は存在したのです。

細菌の研究が進み、19世紀には、感染症の原因は寄生虫を除いて全て細菌であると考えられた時期がありましたが、1892年、タバコモザイク病の病原が細菌濾過器を通過しても感染性を失わないことをロシアのディミトリ・イワノフスキーが発見し、それが細菌よりも微小な、顕微鏡では観察できない存在であることを示しました。

この光学顕微鏡では目視しえなかったウィルスは、後に電子顕微鏡が発明されたことにより、目視することが可能となり、現在のウィルス研究の到達点に至っています。

電子顕微鏡が発明されるまでの間、人類は、様々なウィルスを目視できませんでしたが、目視しえないからウィルスが存在しなかったものではありません。1918~1919年のスペインかぜの死亡者は4000~5000万人と推定されていますが、このスペインかぜの大流行の原因はインフルエンザウィルスであり、人類は当時の科学水準ではインフルエンザウィルスを目視することはできませんでしたが、インフルエンザウィルスは存在したのです。

その時々の科学水準において、人類が目視により確認できる対象は限定されています。
人類が一定の時点の科学水準において目視しえない存在を全て否定するというのは、科学ではありません。

神経イメージング画像診断においては、
《神経イメージング画像上確認できるものはその存在を肯定できる》
は真実ですが、この逆、
《神経イメージング画像上確認できないものはその存在を否定できる》
は真実ではありません。

ペスト菌を目視しえない時代に、ペストの流行を「悪魔の仕業」、あるいは、「ユダヤ教徒の仕業」とした中世の人類の誤りを繰り返してはならないのです。

軽度外傷性脳損傷の機序については、機械的ストレスを受けた脳内の神経線維の損傷過程は、
・ 脳内に発生した剪断力によるびまん性軸索損傷であるとする考え方
・ 局所における細胞レベル、分子レベルの神経代謝カスケードの異常(具体的にその一部を挙げれば、A/D forcesでは局所の電解質恒常性ionic homeostasisが崩壊して発生する細胞膜のATP依存性Na+/K+ポンプの異常(細胞毒性浮腫cytotoxic edemaを招く)や、電位依存性Ca++チャンネルの異常(細胞死:Ca++mediated cell deathを招く)、Ca++イオンの細胞内進入による興奮性神経伝達物質であるグルタミン酸の細胞外への放出(神経毒を発揮する)、細胞骨格の不整misalignment等)
などの仮説が述べられている(注1)が、いずれであっても、現時点の科学水準下で得られる神経イメージング画像法の水準では、確認できない部分が残されている(注2)。

現在の科学技術の水準をもってしても、神経線維の異常の存在について、その全てを神経イメージング法では確認できない以上、神経イメージング法では確認できない神経線維の異常の存在とその内容は、患者の神経学的所見を把握することによって確認するという方法がとられるのです。

すなわち、軽度外傷性脳損傷の診断学において、神経線維に異常が発生したことは、第1に神経イメージング法で、第2に神経イメージング法を補填するための神経学的所見を把握する、という手順を採用するのです。

電子顕微鏡でウィルスを確認することができなかった1892年に、細菌濾過器を通過しても感染性を失わないウィルスの存在をロシアのディミトリ・イワノフスキーが指摘したように、軽度外傷性脳損傷の原因となる神経線維の異常は、現時点ではその異常の全てを神経イメージング画像法で確認することができないことから、やがて電子顕微鏡がウィルスの存在を確認したように、新たな神経イメージング画像法が開発されて神経線維の異常の全容が解明される日が来ることを期待する一方で、その日が来るまでは、人類は過去の歴史の教訓を生かし、軽度外傷性脳損傷の診断学において神経学的所見の重要性を認識してこれを採用すべきです。

このように、タバコモザイク病の病原が細菌濾過器を通過しても感染性を失わないことを確認しても、
《その存在(タバコモザイク病の病原(ウィルスの存在)を、当時の科学技術の水準では目視できないことを理由に否定する》
という非科学の立場に立ってはならないのです。

貴会が、軽度外傷性脳損傷が広く認識されるために幅広く活動されることを、私は心から支援します。正しい科学的知見に基づき、軽度外傷性脳損傷に対する正しい理解がなされるためにみなさんと共に私も行動します。
注1) 石橋徹著「軽度外傷性脳損傷」55~61ページ参照。
注2) 現在使用されているMRIは1.5 Teslaか3.0 TeslaもMRIですが、7.0 Teslaでは動物を対象として軸索損傷を描出に成功しました。石橋徹著「軽度外傷性脳損傷」87~88ページ参照。