3.11から13年 何を学ばなければならないのか

 ホームページの更新がしばらく間隔が空いたのは、語ろうとしたテーマが重く、筆が進まなかったからです。

 数年前から、東日本大震災から立ち直ろうとしている姿も見ておかなければと思っていました。でも、なかなか重い課題で、延ばし延ばしにしていましたが、ようやくゴールデンウィーク前に現地を訪れました。

 妻は、2011年6月、 南三陸・女川・石巻を訪れています。私は、その話を聞き、映像も見ています。

 

 

 私は、2011年7月、仕事の関係で仙台に行った際に、仙台空港の周辺まで足を伸ばしました。

 家はないが基礎だけが残っている、家があったであろう跡地。

 

 被災した自動車が積み上げられた廃車集積場。

 

 

 8月にはボランティアの一員として、大槌町でわずかながらのボランティア活動もしました。

 報道で、震災の大変さは理解していたつもりでしたが、自身の目で現地を見た重さは、見る前とは比べものにならないものでした。

 あれから13年。「復興のボランティアでなく、観光で被災地に足を運ぶことも復興につながる」とは頭では理解していても、2011年の現地の記憶が、三陸に足を運ぶことにブレーキをかけていました。

 さすがに、12年という節目を越えたので、ようやく決断した南三陸訪問でした。基本は観光ベースで計画をしました。

 仙台までは鉄道で。そこからレンタカーで動きました。最初は南三陸町。ここは、妻は訪れていますが、私は初めての訪問です。

 防災の拠点が津波に飲み込まれました。震災遺構として保全されています。

 その近くには、数少ない南三陸の結婚式場「ブライダルパレス高野会館」がありました。震災当時には、南三陸町社会福祉協議会が主催する高齢者の芸能発表会が開かれていました。突然の激しい揺れ。停電。参加者は外に逃げようとしましたが、津波の危険性を感じたスタッフは、玄関で仁王立ち。参加者を、建物の外に出さず、高所に避難誘導。中には背負われて避難した者も。水にはつかりましたが全員が救命。

 災害防災庁舎がなぜ、防災の拠点とならなかったのか。民間の結婚式場がなぜ住民を助けることができたのか。考えさせられました。

 南三陸から海岸づたいに女川に行きました。

 海辺には大きな防潮堤がつらなります。

 海辺には家はありません。かつては多くの家があったのでしょう。この防潮堤は何の役割をするのだろうかと思いながら車を走らせました

 大川小学校。

   

 北上川下流の右岸に大川小学校はありました。すぐ隣は山。ここに避難するのはたやすいこと。この裏山は、「土石流崩壊危険地区に指定され、また本件想定地震により崩壊の危険があった」ため、教員は、ここに避難することを躊躇して、教員自身も津波により被災しました。

   

 判例評釈をするつもりはありません。石巻市の行政が、津波被害を想定し、対策をすることが不十分だったことが問題であり、行政の懈怠を教職員の責任に帰する判示(教職員の責任のみとする判示ではありませんが・・)には賛成できません。

 教員だって犠牲者になりたいとは思っていない。津波に対する正しい認識を持っていないから、犠牲になっているのですから。高校生のみならず教員も犠牲者となった那須雪崩事故も同じ構造です。

 石巻市民病院も志津川病院(南三陸)も、なぜ、海に近い津波に対して脆弱な場所に建てられたのか。志津川病院から、ベッドごと患者が津波に流されていくのを見守らなければならない人の気持を想像すると胸が締め付けられます。行政が津波に対する認識と対策が欠けていたのが原因でなくて、何が原因でしょうか。

 行政は、あえて津波に脆弱な施設を造るという意図があったとは思っていません。津波に対する「無知と無理」が原因です。

 女川町。女川原子力PRセンターも訪ねました。

 安全に対する認識。福島第一原子力発電所は、標高30~35mの台地を掘削し、標高10mで整地されています。原発は海水をポンプでくみ上げて冷却を行います。海抜の高いところに建設すれば、それだけ強力なポンプが必要になり、建設にも運用にもコストがかさむ。ここを考えて、福島第一原子力発電所はわざわざ津波被害にあう危険性があるところまで切り下げたのです。

 女川原発は海抜12mのところに建設されることになっていました。福島第一原子力発電所と同じ発想です。それを変更したのが平井弥之助。平井は14.8mまで上げさせました。彼は、貞観地震の津波の記録を元にして、安全性を考えたのです。

 結果は、東日本大震災時、女川は高さ13mの津波に襲われました。しかも地震による地盤沈下で、女川原発は1mも地盤が低下しました。しかし14.8mで建設していたので13mの津波にも1mの地盤沈下にも80cmの余裕を残して耐え、事故を起こすことなく安全に停止しました。

 「自然災害」は、人智では防げない部分があります。しかし、人智で「自然災害」の被害の一部を防ぐことは可能です。

 石巻市。日和山に登りました。二十数年前に石巻の造船所の仕事で、訪れて以来です。海側の一帯の風景は、かつての記憶と違い、「何もない」土地が広がっています。記憶が間違っているのか・・・・。

 日和山公園には、震災前の石巻港の写真が展示されていました。多くの建物が、多くの人がそこで暮らしている写真でした。震災直後は、その傷跡が生々しく残っていたのでしょうが、現在は、きれいに整地された広大な敷地となっています。

 人の「無知と無理」が原因で生じる被害は避けなければならない。人は、歴史に学ばなければならない。山は崩れ、川は溢れ、海は津波となる。かつての人は、コントロールできない自然を正しく認識し、自然による災禍を免れる立地を選んでいます。時を経て、自然の力を軽視するのは、人の傲慢。人智の退化ではないでしょうか。

 大川小学校でどうして子どもと教員を救えなかったのかという結果と、高野会館で救命できた対応とを学ぶことが、人の進歩の一歩だと思っています。