中学校教諭のくも膜下出血死と公務災害認定-千葉地公災審査会1992年8月11日【労働法律旬報1299号,1992年】

 中野宏之先生は、船橋市立習志野台中学校に転勤して8か月、あと2日で2学期が終わるという1987年12月22日くも膜下出血を発症し、52歳で2度と帰らぬ人となりました。
 どの学校でも学期末は忙しくなるが、2学期末はこれに進路指導が加わります。さらに、1987年度の習志野台中学校は、20周年行事、中央棟の大改修工事、その上、研究指定校を受けており、教職員は多忙を極め、体調を崩す教職員が続発していました。
 その中で、パソコンを使っての全校約1200人(30学級)の学期末の成績処理、進路査定会の資料づくり、校納金の処理を1人でこなした中野先生が倒れました。習志野台中学校の教職員はもちろん、中野先生を知る人は誰もが中野先生の死は公務上であると信じ、公務上認定を求めました。
 公務上認定請求後1年10か月の「慎重」な審理の末、地方公務員災害補償基金千葉県支部長が下した判断は「公務外」でした。
 教育に情熱を傾けている同僚の教職員は中野先生の「死」を「他人事とは思えない」だけに、「中野先生は仕事に殺された。こんな当たり前の事がなぜ、分かってくれないのか!」と、地公災基金の不当な決定に対する怒りは野火のように広がりました。
 地公災基金千葉県支部審査会に対する審査請求では、322人が審査請求代理人に就任し、6回(合計18時間)に及ぶ口頭意見陳述で、延べ26人の代理人・参考人が陳述を行いました。審査委員全員が12月の習志野台中に足を運びました。陽が沈んでも多くの教員が学校に残り、進路指導等の仕事に追われている2学期末の実情を審査委員自身が確認しました。
 全国に広がる支援の輪は6万人を超える署名となり、基金千葉支部、同審査会審査会に提出されました。
 その結果が、公務外認定処分を取り消すとの1992年8月11日付地公災基金千葉県支部審査会裁決です。
 「自宅残業も公務-中野中学校教諭くも膜下出血死事件-地公災基金千葉県支部審査会1992年8月11日裁決」では、事案の概要と裁決に至るまでの取り組みを紹介し、地公災基金千葉県支部審査会の内容とその意義を解説しました。
 地方公務員災害補償制度は、労働者の生活を保障することを目的とする労働基準法を受け、公務上災害について「補償の迅速公正な実施を確保」し「もって地方公務員及びその遺族の生活の安定と福祉の向上に寄与することを目的とする」(地方公務員災害補償法第1条)制度であり、行政当局者はこの立法趣旨を実現すべき責務があります。遺族が「行政は被災者、家族の立場に立って救済してほしい」と訴えることが2度とないように、行政当局者は本裁決を先例として今後の認定を行うことを希望します。