中野宏之先生は、船橋市立習志野台中学校に転勤して8か月、あと2日で2学期が終わるという1987年12月22日くも膜下出血を発症し、52歳で2度と帰らぬ人となりました。
どの学校でも学期末は忙しくなるが、2学期末はこれに進路指導が加わります。さらに、1987年度の習志野台中学校は、20周年行事、中央棟の大改修工事、その上、研究指定校を受けており、教職員は多忙を極め、体調を崩す教職員が続発していました。
その中で、パソコンを使っての全校約1200人(30学級)の学期末の成績処理、進路査定会の資料づくり、校納金の処理を1人でこなした中野先生が倒れました。習志野台中学校の教職員はもちろん、中野先生を知る人は誰もが中野先生の死は公務上であると信じ、公務上認定を求めました。
地公災基金千葉支部長は、1990年12月11日、「公務外」としましたが、持ち帰り残業については、①「被災職員が自宅で行ったとされるパソコン作業は、特段連日のように自宅で作業を行わなければならないような臨時又は緊急にやむを得ない必要があったとは認められず、しかも特に命令を受けていないことから、時間外勤務として公務に従事したものと見ることはできない」、②「仮に、自宅でのパソコン作業を公務に従事したものとしても、職場での勤務と同等に評価することはできないものであり、また、その成果から見て、本件疾病を発症するほどの過重な負荷があったとは認められない」としました。
これに対して、地公災基金基金千葉県支部審査会は、①「1学期の期末テストのときから成績一覧表(各生徒の学年順位や偏差値などが記入されている)をパソコンにより作成しており、特に3年生の進路関係で、査定会の資料作りや10段階評定についてもパソコンで処理し、これらの仕事が重なりパソコンが自宅にあるので家に持ち帰って資料を作っていたことが認められる」、「校長は被災職員に対しパソコンを使用して作業するよう直接命じていないが、作業していることは知っていたので被災者の職務として認めていたものと判断され」、「このパソコン作業による資料が査定会等学校のために使用されていたことから、公務性があったと考えられる。」と認定し、「以上のことから総合的に判断すれば本件災害は、被災職員の有する素因及び基礎疾患が発症の一因ではあるが、本件疾病発症前の過重な業務が精神的及び肉体的負荷となり、自然経過を超えてその症状を急激に憎悪させ、発症を早めたと認めるのが相当である」としました。
本裁決は、教員が、校長の命令がなくとも、自宅で行った作業の公務性を、裁決要旨〓のとおり判断し、①管理者が自宅作業を知っていたこと及び②当該自宅作業が客観的にみて公務であること、の2要件に該当すれば、公務生が肯定されるとした点に意義があると考えられる点で大きな意義がある裁決です。
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